アメリカと日本の歴史書の違い

あと少しで学期が終わる。授業もあと数える程度しかないが、ペーパーが二つある。部屋が本だらけ。文字通り本だらけで、気をつけないと本の山が崩れる。地震がなくてよかった。ペーパーのために読んでいる本は、博論のため、いや今後の学業のために遅かれ早かれ読まなくてはいけない史料や文献ばかり。たかが30ページのペーパー書くぐらいだったらもっと選って読んでも良いが、ついでだから、と思って色々読んでいる。すると時間がかかる。


ってか日本の学術本はなんでこんなに長いんだ?!生の史料を紹介しながら書いてあるからか。アメリカの歴史書は書き方が違う。細かいところや、自分の言いたい事に関係が薄い点はすべてエンドノート行き。つまり読者が素人でも、スムーズに話の流れを追えて、おもしろかった、と思えるようにできている(理想的には)。クリエイティブに色んな点と点をつなぐことも多い。日本の歴史書は、「Aというトピックについて」みたいな題で、A-1a, A-1b, A-1c, A-2a...という風に周囲の情報を網羅する。ある意味辞書のように。専門家にとってはありがたい細かい情報が詳しく載っているが、果たして一般人はこれを読むのか、と思うと疑問。でもこちらの本を読んでいて、細かい点が確認できないのでイライラすることもある。というわけで一長一短。


日本には、学界と一般知識人が交流する場が他にある。たとえば、インテリ雑誌。「世界」とか「現代思想」とか、一般人が読むが学者も参加する、ような雑誌はこちらはあまりない。「座談会」みたいな様式もない。


もちろん、アメリカも日本も例外はたくさん存在する。ゴードン先生の書く本は、むしろ日本の学術本に近くて、アメリカで軽視されがちな "HOW that happened"にきわめて強い。一方最近読んだ日本語の「青年の誕生」みたいな本は(文学者だからかもしれないど)、かなりクリエイティブな視点。成田龍一もその中間、といったところか。