ナショナルヒストリーから抜け出す

昨日から学期が始まって、授業とってないとはいえ、ミーティングやら人に会ったりやらで疲れる。今日は自分のTAしているクラスの初レクチャーで、グラック節がひかりまくった。『「歴史」と「記憶」のなかの第二次世界大戦』というすげー授業で、戦争そのものではなくて、世界中にてこの戦争がどのように語られてきて、どんな社会問題やら政治問題やらに直結してきたか、というのを考える授業。TAも私の他アメリカ史、ヨーロッパ史専門。授業の前に教授とのミーティングでは、世界あらゆるところで同じような記憶のプロセスとカタルシスを経験している事を生徒に見せ、高校までに叩き込まれた「国家概念」とかナショナルヒストリーを徹底的に疑う事をゴールにしたい、と。この教授は100人以上いる生徒たちのポスティングも毎週喜んで全部読む。やっぱり熱いな〜〜〜。


院の学生の間だと「ナショナルアイデンティティー」の空っぽさ、無意味さについては言葉に出していわなくても分かりきっていて、むしろ敵視するくらいが自然だが、ふとこの輪を離れると『日本の心』みたいなコンセプトがまだまだ人気で、そういうのに出くわす度にどっと疲れる。歴史家としてではなくて、教養ある市民として、常識だと思われている事を疑う、という態度は死ぬ程大事だ。